京都市内で生まれ育った私は、かなり自然オンチだった。幼稚園児だったころ、よく風邪をひいた私を父母が海水浴に連れて行ってくれた。京都市内から日本海に出た、親戚の家が網野にあったので。途中ディーゼル列車は、綾部と舞鶴で二度も進行方向を換える。父は、オオッ元に戻ってしまうぞ!と幼い私を喜ばせてくれた。海に着いて、海岸になぜこんなに皆さんキャベツを捨てているのだろうといぶかったが、それはアオサという海藻だと知った。寒天は透明な食べ物なのに、黒褐色で磯臭いテングサというヤツから取ることも初めて知った。
小学校1年まで京都市内の「成逸:せいいつ」小学校に在学し、そこから大阪の寝屋川市に引っ越した。卒業した幼稚園は「桃園:とうえん」幼稚園といった、どちらも雅な名前が付いていた。さて、新しい家の裏には田んぼが広がっていた。そこで出会ったのはおびたたしいクモだった。脚を広げると数センチを超えるクモが地面を素早く歩いていく、このようなハシリグモも仲間だったのだ、
「スジブトハシリグモがオタマジャクシを捕らえたが...」(データ番号: momo070601un01b)。コガネムシの仲間は京都市内にもいて、それと遊ぶことは知っていたがクモとは初対面だった。ある種の畏れをもって眺めるだけだった。
ハシリグモの仲間は、家にいるゴキブリも食べるようだと母が言った。いつぞやクモを追ったら、中が空洞になったゴキブリが残されていたという、そのときクモが捕食者だと初めて知ったのだった。いつもはじっとしているが、こんな風に餌を捕らえていたのだろう、
「キクメハシリグモの捕食映像」(データ番号: momo061206ds01b)。母は娘時代を京都の古い町屋で過ごした、ラジオの後ろによくクモがいたものだと回想し、クモは音楽が好きなのだとも言った。真っ暗な座敷で寝ていると「カサカサ」と音がする。眼をやると眼が光るのでクモだとわかり、あっちへお行きと追ったという。
母は娘時代にネコを飼っていた(毛虫もマッチ箱に入れて飼っていたというが、あるとき刺されてからやめたと言った)、あるとき縁の下からネコを引きづり出して抱き上げると、口の両端からクモの脚が伸びていたので、ビックリして放り投げてしまったという。クモはネコに狩られていたのだ。捕食者ではあるが、クモはあまり大きくならない。ネコ以外にベッコウバチにも狙われるようだ、
「ベッコウバチに襲われるナガコガネグモ」(データ番号: momo060407ab01b)。さて、私はというと母のように毛虫を飼ったこともなく、クモと会話したこともない。いつも背骨のある動物の視点でしか、この世界を見ていないなと感じる。
背骨のある動物とは一線を画する体制と動き、
「コガタコガネグモの捕食行動」(データ番号: momo030314am01b)これを畏れて後ずさるのか、それとも愛でるのか。このデータベースには網を張るクモの美しい映像が登録されている、
「サガオニグモの捕食行動」(データ番号: momo050521es01b)。チンパンジーが家を建てていたら人はビックリするだろうに、何故クモが精緻な網を張っていても人は驚かないのか?これは誰の言葉でしたっけ?。
広瀬祐司(大阪府立茨木高等学校)
2007-06-22